張政

昔の岩波文庫には「邪馬壱国は邪馬台国の誤り」との注釈があって、
何を根拠に原文が誤りだと決めつけられるのかと思った。
では書かれていることが全て正しいかといえば、どこかが矛盾している気がする。
だからといってこの部分はこう変えるべきだなどとは言えない。
矛盾する2文のどちらが誤だと指摘はできない。
下手に直せばほころびは広がるばかりだ。
ひとつ嘘を付けば嘘をつき通さなくてはならない。

今までは解釈だけでやってきた。
原文を訂正しても良いとなれば考え方は千差万別
原文とは似ても似つかぬ、原文の精神を失ったものになる可能性がある。
せいぜい矛盾を示して原因を探るに留め、そっとしておこう。
でないとそこに新たな瓜生島を作ってしまうことになる。

難升米が魏の皇帝に拝謁して帰ってきた。
卒善中郎将の銀印をもらい見聞を広めて帰ってきた。
帯方郡から使者梯儁が来て女王に詔書と破格の賜り物をもたらした。
お礼の手紙は帰国する魏の使者に託した。
三年後、使者を2名から8名に増やしてまた朝貢に行った。
行った掖邪狗らも卒善中郎将の銀印をもらった。
(賜り物はくだされなかったのか、書かれていない。)
二年後、魏の皇帝からの詔が出て黄幢(魏の軍旗)が
難升米あてに帯方郡に預けられた。
その二年後帯方郡の使者、張政が来て難升米に
詔書と黄幢を授けた。

張政が使者として来たのは、
倭の女王・卑弥呼と狗奴国の王・卑弥弓呼が交戦状態にあり、
倭の使者・載斯烏越が帯方郡の太守・王頎にそのことを訴え、
王頎が派遣したことによる。

軍旗は2年前から用意されていた。
軍旗は戦のためのものだから、狗奴国との戦いはすでに
陳情されていたと思える。皇帝の詔書が女王ではなく難升米に
賜われるのはやはり不自然に思える。手紙の返事は手紙をくれ
た人に宛てて書くのが普通だ。掖邪狗ら2度目の使者は
卒善中郎将・難升米の名前で書かれた上奏文を携えて行った
詔書はそれに対する返事ではないだろうか。

偶然にしてはタイミングが悪すぎる(あるいは良すぎる)ことに
張政が倭国に来ている時に卑弥呼が死ぬ。
梯儁は卑弥呼に拝仮(岩波訳では仮に授ける)したとあるが、
張政は難升米に拝仮しても卑弥呼に拝謁したとは書いてない。
張政は卑弥呼を見ていないかもしれない。

その後の出来事を張政は、すべて目撃している。
卑弥呼の墓が作られ、その径が100余歩であることも張政一行が確認した。
奴婢100人が殉死させられたのも、
新たに男王を立てたが国中が従わず内乱がおきたことも、
そのなかで1000人余りが粛正されたのも、
卑弥呼と血縁にある13歳の少女壱与が女王にかつがれるのも。

このとき張政は、檄(ふれぶみ)を出して壱与に告諭したとあるから
卑弥呼には会えなかったかもしれないが壱与には会っている。
難升米には詔書を携えてきたけれども、新女王に与えるものがない。
張政の権限で出せるレベルの行政文書「檄」で処理するのがやっとだろう。

張政が檄をもって告諭するのは魏が女王を権威付ける一種のセレモニーで、
万民に知らしめたほうが良いはずなので壱与に対してはおこなっている。
魏の使者が拝謁できないほど卑弥呼は尊大だったのか、
使者ならば公式に王に面会できる立場のはずだ。
王になってよリ卑弥呼を見たものは少ないというのだから
7年前に梯儁が金印など賜り物を持ってきた時も
居城でひっそり面会したかもしれないが
卑弥呼は公式の場に姿を表さなかったのだろう。
張政は、卑弥呼あての詔書を持っていなかったから会見理由がなかったか。
ではなぜ女王の頭越しに書簡のやりとりがあったのか。
張政が来た時、卑弥呼は病床にあって面会できる状態ではなかったか、
すでに死んでいたかもしれない。

壱与を王に立てて国がようやく平定したとある。
陳情されていたのは女王国連合対狗奴国戦だったが、
卑弥呼が死んで女王国連合自体が内乱になった。
では狗奴国との戦いはどうなったのだろう。
少なくとも戦がなくなったから張政は、帰国したのだろうが。

帯方郡に帰る張政に付き従い掖邪狗ら20人
の使者が海を渡り、男女30人の奴隷を手土産に洛陽に詣でている。


張政の滞在期間はかなり長かっただろう。
その中のどこかで「水行10日、陸行1月」の時間を費やしたとしても
おかしくないと自分は見ている。途中、停滞もあり休日もあっただろうが、
実際費やした生のデータなのではと思っている。あくまでも日数であって
正味の移動時間だと見る必要はない気がする。

倭と魏の行き来はおよそ2年毎に行われていた。
詔書ですら2年がかりで届き、中央官庁から見れば
現実の6倍の距離「里数」が公文書にあったとしてもわからないほと
時間のかかる旅だったのではないかと思う。編者は魏略や広志に書かれた
「里数」に疑いを持たず用いただけで何の作為もなかったと見るのが
自然ではないだろうか。
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ダイヤモンド社 トヨタ経営システムの研究 日野三十四

今日はとてもいい天気でしたがうちにいました。
いつもの窓からまだ梅が見えます。
すこし日に焼けて赤くなったところから黒斑が出てるようですが
大半は青いままで残りの梅も採ってしまいました。

あとは年に一度レポートを書くため本を読んでいました。
(倭人伝ではありません)
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アオ、コンドルのまねしとるんか?

梅酒を漬けました。

広志

魏志倭人伝と同時代に「魏略」という文献があったようですが、
いまでは他の書物に引用された文しか見ることができません。
その内容は倭人伝の一部とよく似ています。「魏略」の他にも
「広志」という文献があり、これも断片のみですが倭人伝と似ています。
似てはいますが食い違ってもいます。

岩波文庫に収録された「魏略」と「広志」は倭人伝から字句を補って
修正されているので原文がどうなっているのかわかりません。
ネットで検索して「魏略」の作者は魚豢、「広志」の作者は晋の郭義恭であること。
「広志」では女王国の名を「邪馬嘉国」と記しているらしいと知りました。
(参考サイト)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/8/kan_en.htm
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/520
「魏略」も「広志」も「翰苑」という書物に引用されていて、
その「翰苑」は唐の張楚金が作者ですが、写本が本家の中国にはあらず、
日本の太宰府天満宮にだけ残っているようです。


魏志倭人伝に含まれる「魏略」「広志」と同じ箇所に鉛筆で線をひきました。
「魏略」も「広志」も全文が残っていないので断定はできませんが
線を引いていないところは倭人伝を編纂するときに差しはさまれたと思えます。
魏と倭の国交、卑弥呼の居城、卑弥呼の死と内乱、壹与の即位など
倭人伝でしか見られない興味深い部分ですが、
他にも編者の意図を垣間見れそうな項目があります。

○「魏略」にも「広志」にも水行20日、水行10日陸行1月は見当たらない。

自分が倭人伝の「邪馬壱国以北の戸数と道里は略載できるがその余りの傍国は
絶遠なので詳らかにできない。」の一文を読んだ時(わからないことはワカラナイ
と明記するなんて、この作者は誠実な人だ)と思えたのですが邪馬壱国への道に
迷うにつれ、何度もこの部分でつまづきました。
(疑問1)
確かに不弥国までは道里と戸数は併記されていますが、
道里を略載できると言いながら
投馬国、邪馬壱国までは距離数でなく日数で
「水行10日、陸行1月」などと書いているのは矛盾している。
(疑問2)
他の辺境国は絶遠なので里数、戸数が得られないと言うのは
おそらく伝聞で得た国名だけを挙げている。
では投馬国、邪馬壱国がすでに里数で表すことできていない、
「水行20日、水行10日陸行1月」そのものがすでに絶遠ではないか。
そんなに遠くの邪馬壱国まで行ったならばその他の辺境国も五十歩百歩のはず。


ところがこの邪馬壱国以北の戸数と道里は略載できるは「広志」にも
同じ文がでてきました。行程を一貫して「里」で現してないのに、「略載している」
というのはある意味うそであり、そんなうそとわかる一文があるのは、
それが倭人伝のオリジナルでなく、「広志」の一文をはめ込んだために
矛盾が生じたのだと思えます。


では後から差しはさまれた「水行10日陸行1月」は何なのだろう。
わたしは倭人伝の編者は決して、
白石一郎の小説「幻島記」のような自己満足の捏造をしたのではないと
思います。一海を渡る1000余里、末盧国ー伊都国間500余里など、
「中国4000年の一時代だけ違う里が使われた」などの説を出さないと
つじつまが合わないほど誇大としか言いようのない「道里」。
なぜこれほど違うのか真実はわかりません。
(秦の始皇帝ぐらい強力な君主ならいざしらず、国家が突然度量衡を変更
するのは混乱を招きさえすれメリットなど無いように思えます。)
後の時代、隋書倭国伝に「夷人里数を知らず、ただ計るに日数をもってす。」
とありますが、魏志倭人伝の関係者こそ里数を知っていたのかと疑いたくなり
ます。距離と時間は次元の違う話で同等に扱うことはできない。
それを軽蔑されているようですが、かえって「水行10日陸行1月」のほうが、
卑弥呼の墓を目撃した人物か、彼の帰国に乗じて帯方・洛陽まで行った倭人が
伝えた「実際にかかった日数」ではないか、けれども魏志倭人伝の編者は文官で
あって当事者でないので矛盾のあるなしにかかわらず、盛りだくさんの情報を収録
したに過ぎない。そのように感じます。

ここで改めて「広志」を見てみます。
「広志に曰く、倭国は東南して陸行すること五百里にして伊都国に到る。
又、南して邪馬嘉国に至る。女国より以北、其の戸数道里、略載する
を得べし。(後略)」前掲の関連サイトより。

今度は邪馬壱国ではなく邪馬嘉国になってしまいました。
今の自分には女王国がヤマタイあるいはヤマトと読めるかは
関心がなくなりました。
国名は置いてもこれは広志の断片に過ぎず信頼に足るかはは判りません。
それでも注目せずにいられないのは邪馬嘉国は伊都国のすぐ南にあると読めることです。

幻島記ー白石一郎

春野図書館で不要本の交換日に得た一冊。
5つの短編が収録されている。

幻島記
アトランティスのように一夜で海に沈んだ島が別府湾にあった。
豊後府内藩の地誌編纂者が捏造した記録が
後世、島の存在の是非をめぐる論争にまで発展する。

蝸牛の城
飫肥に養子として迎えられた都城城主。
負傷兵と女ばかりの城でどうやって敵の攻撃を防げというのか。

消えた男
延岡藩主と瓜二つの男が神かくしに会う。
残された妻と子に危機が迫る。

一炊の夢
佐賀の城から唐津へ輿入れする姫の付き人となった男。
切腹を賭けて得た閑職だったが彼は賭けに勝ったのか?

孤島の騎士
三年ぶりに出島に入港したのはオランダ船を偽装した英国船だった。
欧州事情に疎い日本人通訳が異国船とオランダ人商館長に翻弄される。

娯楽性もありお気楽に読める本だけれど
気に入って繰り返し読むうち、どうも倭人伝につながる気がしてきた。

瓜生島の論争は邪馬台国論争の縮図に思え、
都城は自分が当初邪馬台国の候補地にしかけたところだし
その主人公が後妻にえらんだ女「いと」からは伊都国を連想し、

秀吉が朝鮮出兵の前線基地にしたのは唐津の名護屋城だったが
もとは松浦(まつら)党海賊の根拠地で末盧(まつろ)国に結びつけたくなる。

古田武彦の「邪馬台国はなかった」に影響されて
魏志倭人伝だけが正確で信頼に値すると思っていたけれど
そうとは限らない。
後の時代の情報も取り入れて考えたほうがいいと思えてきた。

秀吉が朝鮮出兵したルート、
蒙古襲来でフビライの水軍の来たルート
鉄砲が伝来したルートなんかもインプットすれば楽しいかもしれない。

難升米

「魏志倭人伝」は「魏略」を参照して書かれた部分と
魏の公文書を閲覧して書かれたと思われる部分がある。
「難升米」の名前は魏の明帝から卑弥呼に宛てた勅書の中に出てくる。
難升米が卑弥呼の使者として貢物を持って洛陽まで来たことをねぎらい、
卑弥呼を「親魏倭王」とし、賜り物を持たせて帰らせる旨の勅書だが、
その勅書の控えが洛陽に残っていたのだろう。

難升米の働きを書き出してみる。

貢物として木綿の布類と男奴隷4人女奴隷6人を含む一団を率いて
邪馬壹国から海を渡り帯方(ソウル付近)に到着。
帯方郡で太守の劉夏と面会。貢物を魏の皇帝のいる洛陽まで届けたい旨交渉、
劉夏が付けた護衛に護られ洛陽に到着。
帝より率善中郎将の位と青い組紐の銀印を授かる。

一団を率いて帯方まで外国を旅するには
語学堪能、一団を守る力も必要。
帯方の地方長官と交渉し魏の皇帝に謁見するには
外見はもとより礼儀にも通じ、卑弥呼の威厳を損ねることのない、
立派な人物でなくては務まらないだろう。
難升米は、同行した牛利、引き連れた男奴隷ともに顔に刺青をしていたのだから
異様な一団に見えたに違いない。

岩波文庫の注釈に難升米がもらった官職、「率善中郎将」の俸給は2千石とある。
太守の俸給も秩2千石なので、三国志の時代に一地方を任された武将と
かわりのない待遇ということになる。

難升米は魏の帝に好印象を与えたのではないか。
倭王が掖邪狗ら第二の使節団に贈り物を届けさせたあと
洛陽の帝から卑弥呼にではなく難升米あてに「黄幢」が賜われる。
黄色は魏王朝のシンボルカラー。幢は軍旗。
いわば魏の「錦の御旗」を掲げる難升米は邪馬壹国軍を動かす権限を持っていたとみえる。
女王に軍旗はふさわしくないという配慮か、
真の実力者は難升米だと見てのことか・・・
ただ、この時の黄幢は帯方郡に託されたままだったようだ。

帯方郡に王頎が赴任して
卑弥呼が狗奴国との抗争について陳情の使者を立てた。
このとき太守王頎が塞曹掾史の張政を遣わし、
詔書と黄幢をもたらし、やはり卑弥呼ではなく難升米に授けて
張政は檄文を作って難升米に告諭(おそらくは読み聞かせ)した。
陳情が来ても太守が詔書を書くわけではないから
それまで帯方郡預かりになっていた詔書と黄幢をとどけたのだろう。

難升米は率善中郎将の官位をもらい倭国の外交官というより
魏の役人として動いていたかもしれない。卑弥呼自体、「親魏倭王」の
金印をもらったと言ってもそれはすでに独立国の王ではなく、
中国皇帝の配下としての王であり、朝貢することによって倭は
進んで中国の地方行政に組み込まれたことになる。
そのことを難升米は十分理解していただろう。

金印や銀印、銅鏡を含む多くの賜り物は
たかたか木綿の布と男女10人の奴隷に対する返礼ではなく、
倭国を魏に差し出したことへの見返りだったのだろう。
倭国は郡にこそならなかったが難升米は太守に準ずる待遇で
倭国という一地方の長官に相当する働きをしていたのではないかと思う。

魏略逸文

講談社文庫、佐藤さとるの「ジュンと秘密の友だち」に
一つの寓話が収められている。
よい物語は読者の心を映す鏡だと。

魏志倭人伝が良い物語かどうかはさておき
三角縁神獣鏡でも覗いたかのように、
大和説の人には大和にしかありえないように、
九州説の人には九州にちがいないと。
日本の神話と結び付けたい人にはそのように、
読み手の望み通りのものに見えてしまう、
まさに心を映す鏡ではないか?
最近そんな気がしているのです。

鬼道につかえよく人を惑わすという卑弥呼が
今なお倭人伝の中から魔力を発しているようで、
倭人伝について語っているつもりが
実は自己主張し続けているに過ぎないのかもしれません。

そのへんのところ気をつけながら・・・

倭国は日本だとは疑うべくもないという立場では
気にも掛けなかった「里数」と現実の差は想像以上で
全行程一万二千里先とは日本をはるかに超えた洋上になってしまう。

倭人伝の中、
「邪馬壹国以北の国の道里、戸数は書くことができるが、
その他の傍国は絶遠で詳しくわからない。」と、
確かな里数だけを書いたかのようだけれど
その里数に従えば日本から大きく外れてしまう。
そうとは知らず、対馬海峡が3000里に相当するからと
一里を70mで邪馬壹国をさがしていたのも「邪馬壹国を見つけたい」という
自分の願望=あさましい心が鏡に映しだされただけだった。

卑弥呼の墓を目撃した魏の使者は墓の径を「100余歩」と報告している。
距離を歩数で測ろうとする人物が現実とかけ離れた「里数」に気が付かないだろうか?
漢和辞典を見ると、
1寸=0.1尺、1歩=6尺、1里=300歩=1800尺とあり、
すべての単位がひとつの度量衡の体系の中にある。
卑弥呼の墓の径を100歩と数える人物ならば
旅の行程で300歩歩けば1里だと数えないだろうか
「倭人伝」は倭国への渡航経験者が一貫して記したのではなく
複数の文献をつなぎあわせて作ったのではないか?
そう思って読み返せば
岩波文庫には魏志倭人伝の大半は魚豢という人の書いた
「魏略」という文献によっているとして巻末に現在では失われてしまった魏略の一部が掲載されている。
その箇所を読まなかったわけではない。倭人伝こそ完璧に正確だと思うあまり、
心が魏略を受け付けなかった。

岩波文庫の付録は著者が字句を補い訂正していて原型がわからない。
ネット上でもすでに魏志倭人伝と魏略逸文の比較された資料が出ていて
わたしなど今さら何を言っているの感がある。でもまあ、その先も自分で読みつづける。

魏志倭人伝で、大陸側から渡海、末盧国への上陸、
伊都国への陸行とその周辺国までは距離が書かれているのに
投馬国と邪馬壹国へは距離ではなく日数で水行20日・水行10日陸行1月と書いたうえ
「女王国以北は道里と戸数は略載できた」とあり、
(日数をもって道里といえるのだろうか?)と思っていた。
また女王国までの総行程1万2千里の記事がそれまでの旅程とは
かけ離れた位置に出ていると思えた。
これらの不自然さが異なる種類の文書の切り貼り、
今で言うコピペによるものだとすれば納得がいく。

魏略の断片の中では「水行20日水行10日陸行1月」の文は
見当たらない。元々はあったが失われてしまったかもしれないが
もともと邪馬壹国までの距離がなくて「道理を略載できた」と
あるのでやむなく別の資料で補った感がある。

そう断じると自分は邪馬壹国にたどり着けなくなってしまう。
それならそれでいいや。
無理に辿り着こうとすればするほど、そのあさましい心が
露呈されてしまう。卑弥呼の罠なのだ。
でもつぎはぎだからと倭人伝すべて否定することはできない。

彼女はコピペをしたというだけで何もかも奪われたが、
否定されたものには大変な価値があったかもしれない。

国名と人名(2)

意味がわからずもどかしかった漢字が、
漢和辞典をひくことで少しだけわかった。
「黥面文身」
黥面は顔に入れ墨をすること。
「黥」は罪人の額に刺し傷をつけて入れ墨をする、刑罰の一つ、とある。
文身は体に入れ墨をすること。
「文」は体に模様をつけるため入れ墨をすること。
同じ入れ墨でも「黥」と「文」は意味が違った。
顔に入れ墨があるのは、罪人を意味する。
夏王朝六代、小康の子が髪を切って体に入れ墨(断髪文身)して
大きな魚に襲われるのを防いだいわれが倭にまで伝わったかもしれないが、
まさか顔にまで入れ墨をすることはなかろうに
男はみな黥面文身だから、罪人、あるいは囚人ばかりいるように見える異様な国。
これが「奴国」の意味だと納得する。
前の記事で、
奴国:罪を得て役所に収容され使役されるものの国*
と訳した。でも、もっと簡単に「罪人国」ぐらいの意味で良いかもしれない。

「奴」なんてひどい漢字を当てたと怒れない、
そのように見られても仕方ないような風俗があったと想像できる。

以下は邪馬壹国の次に出てくる辺傍の国々で
国名のみの羅列が続く、

斯馬国:
この馬の国*

巳百支国:
たくさん枝分かれした蛇の国*

伊邪国:
怪異を従える国*

都支国:
都から分かれた国*

弥奴国:
広大な罪人の国*

好古都国:
古き良き都の国*

不呼国:
呼ばない(招かない?・息をしてない?)国*

姐奴国:
姉御と罪人の国*
女も入れ墨をする国?

対蘇国:
江蘇省に面した国*?
「蘇」の国に面した国*?

蘇奴国:
蘇える罪人の国*

呼邑国*
呼びかける村の国*

華奴蘇奴国:
華やかな罪人、蘇った罪人の国*

鬼国:
鬼の国*
「鬼」は使者の亡霊
万物の精霊、ばけもの陰の神、
邪悪な、陰険な

為吾国:
我がための国*(?)

鬼奴国:
邪悪な罪人国*

邪馬国:
よこしまな馬の国*


躬臣国:
慎み深い家臣の国*

巴利国:
大蛇の貪る国*

支惟国:
おもんばかる国から分かれた国*

烏奴国:
烏のような黒い入れ墨の罪人国。*

奴国(重複):
罪人国*

奴国までが邪馬壱国に従う国でその南に
女王に従わない狗奴国がある。

狗奴国:
小犬のような罪人国。*

狗古智卑狗:
老いて智慧あるちび犬*(人名、狗奴国の官)

伝聞と思われる更に遠くの国々
侏儒国:小人国(読んだ通り)
裸国:裸国(読んだ通り)
黒歯国:黒歯国(読んだ通り)

卑弥呼:小さく広く呼ぶ*(人名、倭の女王)

卑弥呼の使者となった外交官たちの名前
難升米:米が実り難い*
牛利:牛のように役に立つ*
伊声耆:名声ある年寄り*
掖邪狗:人の腕を引っ張るよこしまな小犬*
載斯烏越:烏を戴き通過する*


卑弥弓呼:小さく広く弓を持って呼ぶ*(人名、狗奴国の男王)

壹与:統一の味方、同盟を結んだもの*(人名、卑弥呼の次の女王)

狗が2回も出てくる名前、
多くの人に共通して出る漢字、
音だけを表しているのか意味が通じないもの
微妙・・・

こじつけとも
漢字から得たインスピレーションで創作してるのか
自分でも自信がない。

国名と人名(1)

手に入れた漢和辞典で魏志倭人伝に出てくる国名と
人名の意味を探ってみる。

三蔵法師は天竺からお経を持ち帰って
インド語の音読そのままを漢字で写して、
意味も通じるように翻訳したらしいから
倭人伝の固有名詞も単に音を写したのではなく
何らかの意味が込められているのではないかと思う。

同じようなことをしている人はいないかネット上で検索するも
音読みを古事記や日本書紀の語句に当てはめる記事はあっても、
自分が参考にしたいようなページには出会わなかった。
なので自分の独断で付けた意味には(*)マークをつけています。

好意的な意味に感じたものは青色
否定的に感じたものには赤色を施した。

倭:
遠くまで曲がりくねったさま

對海国:
海に向かった国*

大官:
官位の高い役人

卑狗:
ちび犬*(人名、対海国の大官)

卑奴母離:
ちびで従順な下僕*(人名、対海国の副官)

瀚海:
広大な海

一大国:
孤島の大国*

末盧国:
粗末なあばら屋ばかりの国*

伊都国:
統治する者の都とする国*


爾支:
華やかな支え*(人名、伊都国の官)

泄謨觚:
漏れない酒壺?漏れて空の酒壺*(人名、伊都国の副官)
底なしに飲む男の意味か?
柄渠觚:
取っ手のついた大きな酒壺*(人名、伊都国の副官)
よく飲む男の意味か?

奴国:
罪を得て役所に収容され使役されるものの国*
兕馬觚:
犀のような馬のような酒壺*(人名、奴国の官)
犀や馬並みに飲む男か?

不弥国:
広くない国*

多模:
見習うところが多い、真似ばかりする*?(人名、不弥国の官)

投馬国:
倭国に馬はいない。
馬を投入しても良いほど雄大な国*?

弥弥:
広大な広大な*(人名、投馬国の官)
弥弥那利:
とても大きくおおらかで役に立つ*(人名、投馬国の副官)


邪馬壱国:
不正、よこしま、でたらめ、迷信、怪異で大きな統一国*
(「馬」は大きいという意味の形容詞で使われることがあるという。)

 
伊支馬:
支えになるでかい男*(人名、邪馬壱国の官)
(馬超、司馬懿仲達、星飛雄馬・・・名前に馬が付いても悪い意味ではなさそうだ)
弥馬升:
大きな升*(人名、邪馬壱国の次官)
弥馬獲支:(人名、邪馬壱国の次官)
大きな取引*
(収支の収と獲は似た意味かと想像)
奴佳鞮:
召使の良い革靴*(人名、邪馬壱国の次官)

もっと先まで行きたかったのですが、
漢字とにらめっこして頼りない解釈を考えるのは
意味があるのかないのか自信もなく、
時間もかかるので後半をまた先でやろうと思います。
















一里を390mで魏志倭人伝を見ると

魏志倭人伝で魏の使者が邪馬壱国に来た記述は2つある。
1,正始元年(240年)卑弥呼宛の勅書、親魏倭王の印、銅鏡などをもたらす。
2、正始8年(247年)狗奴国と交戦状態の邪馬壱国に黃幢(軍旗)をもたらし
 檄(檄文;敵の悪を挙げ見方の正義を告げる文書)をもって告諭(道理をもって説き諭す)した。

後者のさなかに卑弥呼の死と墓の記事がある。
墓の大きさを歩数で測った人物はそれまでの道順の距離を
どうとらえただろうか。

海の上を歩くことはできないから歩数は数えられないだろうが、
はじめて一海をわたって上陸する対海国(対馬)は方400里とある。
Screenshot_from_2016-12-30_13-13-04_convert_20161231061436.png
対馬で歩数を数えているだけで九州に着いてしまう。

九州の上陸地点末盧国から伊都国まで東南へ500里とある。
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おかしなことになってきた。
帯方郡(ソウル付近らしい)から九州の北岸まで7000里。
Screenshot_from_2016-12-30_18-12-06_convert_20161231060843.png
とうに日本を通り越している。

全行程1万2千里
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方位を東に変えてみても
Screenshot_from_2016-12-30_18-18-17_convert_20161231060610.png
一里390歩で見ると倭国は日本のどこともかすりはしない。
墓の記事は2度めの訪問だから魏使は1度めの情報を調べてゆくはずだ。
少なくとも歩数で墓を測る人物がいるなら前半の里数の記述と実際の違いに
気づかないだろうか?

道順を記した前半部と国交について記した後半部。
これらは別の文書から寄せ集めて作られたものではないかと思える。

漢和辞典

夏の間、立ち寄ったBookOffで漢和辞典を買っておいた。
三省堂刊 「全訳 漢辞海」
定価2900円のところ960円でGETした。

先日の卑弥呼の墓の件で
墓の径が100余歩だとあった。

漢和辞典で「歩」の意味を調べた。
距離で用いる「歩」とは(ふたあし)のこととアル。
1歩とは歩幅x2ということになる。

前の記事で卑弥呼の墓の大きさを径70mと推定したのは誤りのようで、
約140mということになる。
Screenshot_from_2016-12-28_21-54-48_convert_20161228220019.png
(googlemapは権現塚古墳)
Wikipediaに周・漢代の1歩は1.3mとされていた理由が初めてわかる。

卑弥呼の墓を報告した者は
自らの歩数で旅の行程も書き留めていたであろうと思えた。(買いかぶりか)

漢和辞典で「里」を調べる。一里は300歩とアル。
1歩1.3mx300=一里390mということになる。

それは対馬海峡200kmを3000里で割って得た1里70mと全然異なる。
短里・長里の論争に触れたくなかったので、はっきりしている海峡の距離から
一里を推定したが、感じるまま素直に読むほどに自己矛盾に陥る。

1里=70mに辻褄が合うような短里が存在したのなら、
「短里とは(例えば)50歩である」という定義が古典に見つからねばならないと思うが、
そのようなものは検索できない。
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