国名と人名(2)

意味がわからずもどかしかった漢字が、
漢和辞典をひくことで少しだけわかった。
「黥面文身」
黥面は顔に入れ墨をすること。
「黥」は罪人の額に刺し傷をつけて入れ墨をする、刑罰の一つ、とある。
文身は体に入れ墨をすること。
「文」は体に模様をつけるため入れ墨をすること。
同じ入れ墨でも「黥」と「文」は意味が違った。
顔に入れ墨があるのは、罪人を意味する。
夏王朝六代、小康の子が髪を切って体に入れ墨(断髪文身)して
大きな魚に襲われるのを防いだいわれが倭にまで伝わったかもしれないが、
まさか顔にまで入れ墨をすることはなかろうに
男はみな黥面文身だから、罪人、あるいは囚人ばかりいるように見える異様な国。
これが「奴国」の意味だと納得する。
前の記事で、
奴国:罪を得て役所に収容され使役されるものの国*
と訳した。でも、もっと簡単に「罪人国」ぐらいの意味で良いかもしれない。

「奴」なんてひどい漢字を当てたと怒れない、
そのように見られても仕方ないような風俗があったと想像できる。

以下は邪馬壹国の次に出てくる辺傍の国々で
国名のみの羅列が続く、

斯馬国:
この馬の国*

巳百支国:
たくさん枝分かれした蛇の国*

伊邪国:
怪異を従える国*

都支国:
都から分かれた国*

弥奴国:
広大な罪人の国*

好古都国:
古き良き都の国*

不呼国:
呼ばない(招かない?・息をしてない?)国*

姐奴国:
姉御と罪人の国*
女も入れ墨をする国?

対蘇国:
江蘇省に面した国*?
「蘇」の国に面した国*?

蘇奴国:
蘇える罪人の国*

呼邑国*
呼びかける村の国*

華奴蘇奴国:
華やかな罪人、蘇った罪人の国*

鬼国:
鬼の国*
「鬼」は使者の亡霊
万物の精霊、ばけもの陰の神、
邪悪な、陰険な

為吾国:
我がための国*(?)

鬼奴国:
邪悪な罪人国*

邪馬国:
よこしまな馬の国*


躬臣国:
慎み深い家臣の国*

巴利国:
大蛇の貪る国*

支惟国:
おもんばかる国から分かれた国*

烏奴国:
烏のような黒い入れ墨の罪人国。*

奴国(重複):
罪人国*

奴国までが邪馬壱国に従う国でその南に
女王に従わない狗奴国がある。

狗奴国:
小犬のような罪人国。*

狗古智卑狗:
老いて智慧あるちび犬*(人名、狗奴国の官)

伝聞と思われる更に遠くの国々
侏儒国:小人国(読んだ通り)
裸国:裸国(読んだ通り)
黒歯国:黒歯国(読んだ通り)

卑弥呼:小さく広く呼ぶ*(人名、倭の女王)

卑弥呼の使者となった外交官たちの名前
難升米:米が実り難い*
牛利:牛のように役に立つ*
伊声耆:名声ある年寄り*
掖邪狗:人の腕を引っ張るよこしまな小犬*
載斯烏越:烏を戴き通過する*


卑弥弓呼:小さく広く弓を持って呼ぶ*(人名、狗奴国の男王)

壹与:統一の味方、同盟を結んだもの*(人名、卑弥呼の次の女王)

狗が2回も出てくる名前、
多くの人に共通して出る漢字、
音だけを表しているのか意味が通じないもの
微妙・・・

こじつけとも
漢字から得たインスピレーションで創作してるのか
自分でも自信がない。
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国名と人名(1)

手に入れた漢和辞典で魏志倭人伝に出てくる国名と
人名の意味を探ってみる。

三蔵法師は天竺からお経を持ち帰って
インド語の音読そのままを漢字で写して、
意味も通じるように翻訳したらしいから
倭人伝の固有名詞も単に音を写したのではなく
何らかの意味が込められているのではないかと思う。

同じようなことをしている人はいないかネット上で検索するも
音読みを古事記や日本書紀の語句に当てはめる記事はあっても、
自分が参考にしたいようなページには出会わなかった。
なので自分の独断で付けた意味には(*)マークをつけています。

好意的な意味に感じたものは青色
否定的に感じたものには赤色を施した。

倭:
遠くまで曲がりくねったさま

對海国:
海に向かった国*

大官:
官位の高い役人

卑狗:
ちび犬*(人名、対海国の大官)

卑奴母離:
ちびで従順な下僕*(人名、対海国の副官)

瀚海:
広大な海

一大国:
孤島の大国*

末盧国:
粗末なあばら屋ばかりの国*

伊都国:
統治する者の都とする国*


爾支:
華やかな支え*(人名、伊都国の官)

泄謨觚:
漏れない酒壺?漏れて空の酒壺*(人名、伊都国の副官)
底なしに飲む男の意味か?
柄渠觚:
取っ手のついた大きな酒壺*(人名、伊都国の副官)
よく飲む男の意味か?

奴国:
罪を得て役所に収容され使役されるものの国*
兕馬觚:
犀のような馬のような酒壺*(人名、奴国の官)
犀や馬並みに飲む男か?

不弥国:
広くない国*

多模:
見習うところが多い、真似ばかりする*?(人名、不弥国の官)

投馬国:
倭国に馬はいない。
馬を投入しても良いほど雄大な国*?

弥弥:
広大な広大な*(人名、投馬国の官)
弥弥那利:
とても大きくおおらかで役に立つ*(人名、投馬国の副官)


邪馬壱国:
不正、よこしま、でたらめ、迷信、怪異で大きな統一国*
(「馬」は大きいという意味の形容詞で使われることがあるという。)

 
伊支馬:
支えになるでかい男*(人名、邪馬壱国の官)
(馬超、司馬懿仲達、星飛雄馬・・・名前に馬が付いても悪い意味ではなさそうだ)
弥馬升:
大きな升*(人名、邪馬壱国の次官)
弥馬獲支:(人名、邪馬壱国の次官)
大きな取引*
(収支の収と獲は似た意味かと想像)
奴佳鞮:
召使の良い革靴*(人名、邪馬壱国の次官)

もっと先まで行きたかったのですが、
漢字とにらめっこして頼りない解釈を考えるのは
意味があるのかないのか自信もなく、
時間もかかるので後半をまた先でやろうと思います。
















一里を390mで魏志倭人伝を見ると

魏志倭人伝で魏の使者が邪馬壱国に来た記述は2つある。
1,正始元年(240年)卑弥呼宛の勅書、親魏倭王の印、銅鏡などをもたらす。
2、正始8年(247年)狗奴国と交戦状態の邪馬壱国に黃幢(軍旗)をもたらし
 檄(檄文;敵の悪を挙げ見方の正義を告げる文書)をもって告諭(道理をもって説き諭す)した。

後者のさなかに卑弥呼の死と墓の記事がある。
墓の大きさを歩数で測った人物はそれまでの道順の距離を
どうとらえただろうか。

海の上を歩くことはできないから歩数は数えられないだろうが、
はじめて一海をわたって上陸する対海国(対馬)は方400里とある。
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対馬で歩数を数えているだけで九州に着いてしまう。

九州の上陸地点末盧国から伊都国まで東南へ500里とある。
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おかしなことになってきた。
帯方郡(ソウル付近らしい)から九州の北岸まで7000里。
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とうに日本を通り越している。

全行程1万2千里
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方位を東に変えてみても
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一里390歩で見ると倭国は日本のどこともかすりはしない。
墓の記事は2度めの訪問だから魏使は1度めの情報を調べてゆくはずだ。
少なくとも歩数で墓を測る人物がいるなら前半の里数の記述と実際の違いに
気づかないだろうか?

道順を記した前半部と国交について記した後半部。
これらは別の文書から寄せ集めて作られたものではないかと思える。

漢和辞典

夏の間、立ち寄ったBookOffで漢和辞典を買っておいた。
三省堂刊 「全訳 漢辞海」
定価2900円のところ960円でGETした。

先日の卑弥呼の墓の件で
墓の径が100余歩だとあった。

漢和辞典で「歩」の意味を調べた。
距離で用いる「歩」とは(ふたあし)のこととアル。
1歩とは歩幅x2ということになる。

前の記事で卑弥呼の墓の大きさを径70mと推定したのは誤りのようで、
約140mということになる。
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(googlemapは権現塚古墳)
Wikipediaに周・漢代の1歩は1.3mとされていた理由が初めてわかる。

卑弥呼の墓を報告した者は
自らの歩数で旅の行程も書き留めていたであろうと思えた。(買いかぶりか)

漢和辞典で「里」を調べる。一里は300歩とアル。
1歩1.3mx300=一里390mということになる。

それは対馬海峡200kmを3000里で割って得た1里70mと全然異なる。
短里・長里の論争に触れたくなかったので、はっきりしている海峡の距離から
一里を推定したが、感じるまま素直に読むほどに自己矛盾に陥る。

1里=70mに辻褄が合うような短里が存在したのなら、
「短里とは(例えば)50歩である」という定義が古典に見つからねばならないと思うが、
そのようなものは検索できない。

また出たか魏志倭人伝

数日前、休みの日だったと思う。
朝、目が覚めてふと思った。

魏志倭人伝の卑弥呼が死んだ時の記事にこうある、

「卑弥呼が死んだ
 大きな塚を作った。
 径100歩余り。
 殉葬者奴婢100余人。」

簡潔に書いてある、このまま、単純に、素直に読めば
卑弥呼の墓は直径70mくらいの円い丘で、
もし古墳として残っていたら「円墳」に該当するのではないか。
そのイメージは
6・3・3で12年、繰り返し学校でインプットされてきた
大和王権のシンボルである「前方後円墳」ではない。

もうひとつ腑に落ちないことが出てきた。
卑弥呼の墓には奴隷が100人ばかり生き埋めにされたとある。
古墳時代には殉葬者の代わりに埴輪を埋めたのだと習った。
多くの古墳は発掘調査が認められていないはずだ。
では教科書に載っていたあの素焼きの人型の埴輪はどこの古墳から発掘されたものか?
Wikipediaを見ても、人型は関東以北に多いが市町村名しか出ていなかったりする。
古墳以外の場所から出たものではないのか?
それとも古墳と知らずに掘った場所から出たのだろうか?
埴輪は殉死者の代わりだったのだろうか?
人型以外に家とか動物とかも生け贄代わりだったのだろうか?

インターネットから得られない情報は自分の足で探すしかない。
円墳の分布図が見たいのに前方後円墳の分布図ばかり出てくる。
自分が卑弥呼の墓を探すならば円墳を訪ね歩くだろう・・・

例えば吉野ヶ里遺跡と大川を挟んで反対側の久留米市に
権現塚古墳という円墳があるようだ。被葬者は不明で規模も大きい。
倭人伝に思いを馳せることができそうで行ってみたい気がする。

魏志倭人伝

ガシャポンをやった。
近頃のは300円もする。
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本当は写真の「矢の根」という紅い隈取のが欲しかったが
出てきたのは「忠信」という地味なものだった。
出るまでやるほどの根性はない。
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倭人の男子は身分を問わず、みな顔や体に刺青をしているとある。
顔の刺青を検索してみると太平洋の島々の民族に多い。
倭人伝に記されているのは果たして本当の日本人だろうか?
手塚治虫の火の鳥他、邪馬台国が描かれた映像で刺青の人物はほとんど見ない。
日本人の頭から倭人は刺青をしているという意識が消えている。

刺青の記事に注意すると、
その起源は中国の殷の前の時代である、
夏の王族が大魚から身を守るために広めたものが
大陸から伝わったのではと思わせる記述がある。
では刺青は中国由来の文化なのだろうか?
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だとするとどんなデザインだったのだろう?
刺青ではないが京劇の仮面を探してみる。
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刺青でなくていいならこんなイメージもある。
倭人は弓矢を使い、
男は上半身裸。布を巻いただけのようなものを着ているとあるから
この人たちとも共通点がありそうだ。

そのうちはたと思いつく。
京劇の影響で歌舞伎ができたのだとしたら。
やはりそこには倭人の文化が息づいているのかもと。
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だとすると、やはり私達は倭人の末裔なのだろうか。




日輪 横光利一

雨です。
よく降ります。

せっかくの休みなのに
やろうと思っていたこともやる気が出ません。

町に出たついでに幾度となくBookOffに立ち寄りましたが
入手したい本は文庫本でもそんなに安くなっておらず、
ふと思いついて青空文庫を見てみました。
読んでみたかった本が古書店で探すよりも早く検索できるので
愛蔵する必要がなければこれで十分です。
ディスプレーの画面を見続けるのは少し疲れますが。

起きがけに横光利一の日輪を読んでみました。
卑弥呼を主題に取り上げています。

歴史的事実にこだわらない娯楽作品ですが
魏志倭人伝が下敷きになっている箇所を見ると
なんだかうれしくなります。事実はもうちょっと
違うんだろうと思いますが。

ただ、序章で
有明海を見渡せるあたりをさまよう旅人が不弥国に至るあたり、
(いい線いってる。)と思えるのです。

魏志倭人伝

不弥国から先、
投馬国まで南水行20日、
邪馬壹国まで南水行10日、陸行1月。

それまで距離(里数)表されていた道里がその先
時間(日数・月数)に替わる。
距離と時間は単位が違う、足し算はできない。
日数・月数はあくまで旅程で、距離とは別物。
それ以外の記事だけから分ることはないか考える。

島と思われる対海国・一大国のみが四方4百里・四方3百里という広さと、戸数
の記事が揃っている。この人口密度ならぬ戸数密度から他の国の広さを推測してみたい。
原文には一言も対馬・壱岐の名前は出てこないが、
対海国=対馬、一大国=壱岐というのは、そう思いたい範囲のものである。

いつものように朝鮮海峡200kmが3000里に相当すると仮定して里数の基準とする。

対海国
対馬の形は縦長で「方4百里」というイメージではないが、
面積と距離を知るサンプルの一つと見る。
1000戸だから百里四方に63戸。田畑のない土地。

一大国
壱岐は「方3百里」で3000戸。百里四方に444戸。田畑はわずかにある。

一大国―末盧国間
壱岐から九州までの海峡はそれまで2度渡った海より幅が狭い。
それでも原文ではそれぞれ1000余里、1000余里、1000余里となっている。
対海国→一大国では「南 一海をわたる千余里」と方角が示されているが、
一大国→末盧国間は「また一海をわたる千余里」として方位を限定していない。
九州上陸は壱岐から千余里の範囲で東南か西南にそれた可能性も否定できないが、
原文は軽くそこを流しているだけで、含みを持たせて方位を省略したとは感じない。
大陸から初めて海を渡ったとき、その地点、「狗弥韓国」を倭の「北岸」と紹介しているのだから
素直に読めば真っ直ぐ南に下ってきたと受け取れる。

末盧国
九州上陸後は国の大きさの記事はないが、国と国の距離と戸数から
位置と大きさを想像する。
末盧国は海岸線に沿った漁村の国で陸上の道は発達していない。
内陸に領土を持っているような文は見られない。
それでも4000戸あるというのだから、壱岐と同等か対馬に匹敵する
長さの海岸線を占有しているように思える。
へたをすれば北九州沿岸一帯が末盧国の可能性もある。
今の感覚からすれば末盧国は大陸への玄関口。
けれど野蛮な漁民の姿しか描かれていない。
内陸との交易が盛んなら、道もそれなりでもいいのに
前行く人が見えないほどだという。
しかもここには「官に誰それ」とか「副に誰それ」とった高官の名前もない。

末盧国―伊都国間
この間、東南へ陸行500里という。
300余里四方の壱岐をものさしにすれば
300里角の正方形の対角線は420里なので
伊都国は北九州沿岸から壱岐の島一つ分は内陸に入った
ところにあると想像する。
旅程の距離は各国間の隔たりなのか、
中心都市(首都)間を結ぶ距離なのか定かではないが、
末盧国→伊都国間についていえば一方は海岸線の国、
一方は内陸の小国でその間を500里の未開の地が
隔てているように感じる。

伊都国
岩波文庫の解説には「歴代の王がいて魏使も駐在し”一大率”という
軍隊まである。1000戸は原文の誤りで10000戸ではないか」
とある。自分は原文に従った読みかたをしたい。
末盧国から東南を向いて伊都国に着いた。さらに東南に100里進むと
もう隣国の奴国がある。あっという間に通り過ぎる大きさだ。
一大国が300里四方で3000戸なら、100里で通過出来る伊都国が
1000戸でも辻褄があう。戸数から伊都国は壱岐の3分の1程の大きさと仮定する。

奴国
伊都国→奴国間100里。伊都国の東南に隣接しているだろう。
戸数は20000。伊都国の20倍。一大国の7倍ある。
米の生産はこれまで見てきた国より多いだろう。
次の不弥国まで100里。原文の読み下しによって、
位置関係が、伊都国―奴国―不弥国か
奴国―伊都国―不弥国なのか解釈が分かれるが、
この3国間は200里で往来できる近さにある。
奴国から見れば北西・東(もしくは東北東)に他国があり、
南に戸数20000を抱える自国の領土が広がっているのだろう。
フリーハンドで伊都国の東南に壱岐の7倍程度の領土を奴国とする。

不弥国
不弥国1000戸。戸数も隣国からの距離も伊都国と同じ。
国の規模も同じぐらいだろう。
不弥国の次に「水行」の記事が始まるからここに港があると思うが、
「水行」の開始が伊都国とする解釈もある。
3国は距離的に近い。そのどこから船出しても大差ないように思う。
ただし、末盧国から「水行」が開始するとは思えない。
上陸して荷揚げした末盧国から船出するのは無駄なことと思える。
500里の陸行も無駄になる。

投馬国
「邪馬壹国より以北は、その戸数・道里を得て略載できる。」との一文は、
50000戸と書かれた投馬国は邪馬壹国より以北だと、私にとっては、
それ以外に解釈しようがない。そして邪馬壹国は投馬国よりさらに南に
水行10陸行1月の地であることを補足していると思える。
いま、奴国の南に戸数50000に見合う奴国の2倍半の範囲を投馬国とする。
そうすれば投馬国の南は自ずと邪馬壹国になる。

邪馬壹国
70000戸。
邪馬台国の場所は不明でも
誰もが一大国を壱岐だと思いたいのではないかと思う。
邪馬壹国は一大国よりは良田があるだろうから、
3000戸の一大国の23倍の広さがなくても
70000戸の人口は養えるかもしれないけれど
その面積を投馬国の南に置く。
奴国、投馬国、邪馬壹国の戸数は一大国と比べると1桁違う。
この3国を合わせた戸数は一大国の47倍。
いずれも一大国よりは人口密集地だとは思うが
壱岐の対岸で47倍近い広さは九州本島に
収めることが出来る。

人口密度
(クリックで拡大します。)



倭人伝の冒頭に「倭人は帯方の東南大海の中にあり、云々」とある。
倭人伝全体で最も肝心なこの一文が最初に置かれていると思う。
帯方を出て韓国の西岸を南下したか分からない。そうだとして
多少西に向かったかもしれない。九州上陸後も地形の制約で、
一時的に東・南以外の方向に向かったかも知れないが、邪馬壹国への道のりの
記述は一貫して「東」「南」「東南」の方向に限られている。逆に邪馬壹国から
その行程を振り返るときに一貫してそれは「北」だと言っている。
各国の道里を示す方角はどれ一つ最重要テーマの「倭人は帯方の東南大海の中にあり」
から外れていない。地図に領土をはめ込むとき、原本の方角はおおむね尊重した。
そして到達点からみて経由地は北にあり、帯方も東南の真逆、北西にある。

戸数から広さを推定して作った地図。
忍者は必殺技を編み出せば、次にそれを打ち破る技を考えるそうだ。
だからこの地図の欠点を自分が突かねばならない。
でも、それは次の機会に。

魏志倭人伝

なんの先入観もなしに魏志倭人伝だけを読んだとき
得られる倭国のすがた、地理情報をもとめても
その距離と方位と日数は統合することはできないと思う。
自分は一旦「これは無理だ。」と降参してしまおう。
三国志・倭人伝自体が、晋王朝内部向けの史書で
ヤマタイコクを検証する目的では書かれていない。
位置情報以外に目を向けてヒントはないかと思う。

女王国以北の道里は狗弥韓国から3度海を渡り
末盧国で上陸したのち
再び「南へ水行20日」および「水行10日」したのち陸行1カ月で女王国に着くと
「略載」されている。
もし、黙々と舟をこぎ陸を歩けば遙かな南海に着くだろうが、
倭人伝には洛陽までの行程もあるので抜き出して、どんな旅だったのか見てみる。

景初2年(238) 6月
       女王の使者、難升米、帯方郡に着く。
       魏の天子に献上品を届けたいと願い出る。       
       この時の献上品というのが、
       人間(生口)の男4人、女6人、木綿の布2匹2丈。
       郡の太守劉夏が洛陽まで役人を付き添わせる。
       献上品の10名も引き連れて洛陽まで旅したことになる。
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画像は風俗博物館より借用。
当時倭国では罪人の妻子を没収するなどして人間を取引していたふしがある。
皇帝に献上するなら男は強健で女は美女だったのではないか。
衣装は、献上品と同等の木綿の布で出来ていたのではないかと思う。


景初2年(238)12月
       難升米、洛陽に着き、魏の天子から女王への詔書・
       「親魏倭王」の印綬・引き出物を賜ると同時に
       自身らも「率善中郎将」などの官位をもらう。
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正始元年(240)?月
       洛陽からの詔書・印綬・賜りものが帯方郡の太守弓遵
       の中継により倭国に届く、使者が女王に拝謁、その帰りに
       女王の返礼の文書が託される。

難升米がひとつの朝貢で帯方郡を発ち洛陽で詔書をもらうまで
6カ月かかっている。

帯方郡(ソウル付近)から洛陽まで距離にして最短でも1800km。
対馬海峡200kmが3000里に相当したとして換算すると
帯方郡⇔洛陽間27000里。これの移動に6カ月かけた。
関羽の赤兎馬は一日1000里を駆けるというがそれで走り続けると27日の行程。
馬の常足は時速6.6km(JRAより)1日5時間歩行したとして30kmで60日の行程。
6カ月という日程には正味の移動日数の3倍の時間があるようだ。
実際の日数には天候その他による停滞、会合やイベント、事務手続き、補給・休養が
含まれているだろう。
倭人伝の記述に牛・馬・虎・豹・羊・鵲なしとあり、倭国内は徒歩旅行だった。
行程の表記が里数から日程に変る不弥国までの累計は10600里、
帯方郡から女王国までの総距離12000里からこれを差し引くと、水行20日および
水行10日陸行1月、計60日は1400里の日程に該当。kmに換算して300km弱。
これを時速4kmの人の足で5時間歩いたとして1日20kmで15日。
3倍すると45日ほどになり距離と日程のギャップは縮む。

簡単に言ってしまえば、中国本土の移動でさえ馬の常足でかかる3倍以上の
日数がかかっているのだから倭国内でも正味の移動日は日程の3分の1と
みなせると考えられないだろうか。

景初2年内の記事は「6月」「12月」と詳細まであるのに
岩波文庫版では後世の日本で作られた日本書紀にある魏史の引用に
景初3年になっているという理由で原本の景初2年は誤りだとされている。
それを無視して帰りの行程を見ると、
「親魏倭王」の印は詔書と一緒に洛陽を出てから1年以上かかって
倭国に届いたことになる。
以下、倭国と魏の往来の記事は2年のインターバルで記されている。
1記事に発着の内容が含まれる場合、書き手が洛陽に居ることを考慮すれば
洛陽でイベントが発生した時期とみて良いと思う。

正始4年(243)  (追加使者、洛陽着)
       女王、また掖邪狗ら使者8名を遣わし、献上品を送る。
       この時の使者も「率善中郎将」の位をもらう。

正始6年(245)  (詔書、洛陽発→帯方郡着)
       魏から詔が出て難升米にあてて(魏王朝の)黄色の旗、黄幢が
       帯方郡に付される。

正始8年(247)  (詔書と黄幢、難升米に渡る)
       帯方郡の太守、王き(フォントなし)に交代。女王卑弥呼、狗奴国との
       抗争を陳情。使者・張政を遣わし難升米に勅書・
       黄幢を仮に授け、檄(文)を作って告げさとす。

正始?年(?)  (卑弥呼死亡、張政の帰還)
       張政の滞在中に卑弥呼が死亡。男王の後継ならず内乱の末、
       13歳の女子、壱与が即位。張政が檄をもって壱与を
       告げさとす。掖邪狗ら30人の使者に張政を送らせ、
       使者はその足で洛陽に詣でて、男女30名、雑錦20匹他を献上。 

いくつかの言葉がわからない。
魏の使者が倭王に「拝仮」する。
難升米に「拝仮」せしめ・・・
いまは現代文訳の通り「仮に与えた」と理解しておく。
檄をもって「告喩」(つげさとす)は脈絡から類推するしかない。

倭人伝の前半が地理と産物、風俗、後半に魏と倭の往来が書かれている。
あらためて魏と倭の関係を見て気付いたことがある。

1.卑弥呼は親魏倭王の印を拝仮したが
  難升米らも魏王朝から倭王の頭越しに官位を授かっている。
  それは倭国の官位ではない。倭王には官位を与える力がないか (難升米には大夫の肩書がある)
  魏の官職の方が価値があったのだろう、使者たちが次々と洛陽に詣り、
  官位を授かっている。
2.卑弥呼は倭王として一国を任されているのに狗奴国との抗争を自力で解決できず、
  魏に訴え出たのだから統治能力なしとみられても良い。それに対して
  難升米に勅書・黄幢を仮に授けたというが、太守が勅書を作るはずがない。
  これはすでに難升米にあてて届いていたものを渡したに過ぎない気がする。
  その2年間勅書が何かの事情で帯方郡に足止めされていたのではないかと思う。
  勅書は狗奴国との抗争の訴えに応じた内容だったのではないかと思う。  
3.授かった黄幢はいわば魏の「錦の御旗」で魏王朝の威光で倭国を平定したのだから
  倭国は独立国家というより、自ら進んで属国または魏の支配下に入った行政区分の扱いだろう。
4.狗奴国と交戦中に勅書と黄幢をもたらした張政は文官というより武将クラスの人物。
  壱与に対して檄をつくり告げさとすとは、倭国における魏の支配を脅かす狗奴国を朝敵と認定し、
  狗奴国を屈服させるように命じるものだろうと思う。張政は年端もいかない壱与のまえで檄を読んだ。
  果たして壱与に通じただろうか。倭国王族が幼少から中国語に親しむ環境にいたならそれもありうる。
5.壱与はまだ13歳で自らの意思で魏に使者を送るなど無理と思える。が壱与の命をうけて
  掖邪狗ら実力者20人が使者にたち洛陽に詣で、献上品も男女30人物品も卑弥呼の時より充実している。
  使者のなかには壱与側に付く見返りに官位を期待した者たちもいたのではないか。
  卑弥呼に対してなされたように壱与にも「親魏倭王」の印を求めての使者だったのではなかろうか?
  壱与が13歳で王として担がれて外交をしているなら卑弥呼も、真の実力者でなしに国が治まっていた。
  張政らはその様子を目の当たりにして帰ったと想像する。
  壱与の朝貢に対して洛陽側のリアクションがなにも記されていない。
6.あらかじめ、これは全くの想像ですとことわっておきますが、
  女王国への道里は、この魏使の往来に基づいて書かれたのではないかと思える。
  張政が卑弥呼の死、男王の失脚 倭の内乱、壱与の即位、倭国の平定に立ち合ったとすると
  その滞在日数は1月や2月では済まされないように思える。これらを含めたか、それに見合った
  日数が水行10日・陸行1月には含まれていた。かかりすぎと思える日程は接待ずくめにあった
  文官のものではなく、思わぬアクシデントを切り抜けた武官が必要と考えた日数ではと想像する。 
  


      








魏志倭人伝

九州から帰っても時々倭人伝のことを考えます。
今思っているのは、末盧国が唐津あたりだとして、
東南へ500里で伊都国に至るのですが、
「虹の松原を歩いて道なりに糸島半島へ行くしかない。」
と書いた本があってそう思い込んでいたのですが、
現在唐津城付近にある松浦川の河口は、秀吉の時代に河川改修されるまでは
JR虹の松原駅あたりだったと知り、もちろんそれまでは松原もなく、
ここで川を渡って糸島半島へ向かう以外に、川の上流に向かって方角的にもまさしく東南、
100里を7kmとして35kmで佐賀の手前まで行く選択肢もあると思っています。
そこまでいけば南水行20日で投馬国、南水行10日陸行1月で邪馬壹国への
方角だけは南に向かえる海、有明海もあります。
map.gif
国土交通省九州地方整備局河川部のサイトより地図拝借
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