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学研まんが

以前から目をつけていた古本まんが
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そこに描かれた邪馬台国のシーンは
山岸涼子の「青青の時代」よりも
石ノ森章太郎の「日本の歴史2巻」よりも
魏志倭人伝に忠実で史実に近いと思えました。
最近、立ち寄ったついでに買ってしまいました。
108円。
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帯方郡の太守・王頎が派遣した張政は武官であったろうし、
魏の皇帝に謁見した難升米も外務大臣兼将軍くらいの地位だったから
こんなシーンがあってもおかしくない。
欲を言えば難升米はこんな大国主みたいな服ではなく
顔にも入れ墨を書いてほしかった。
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とにかく目の行き届いた監修のもと
誠実に、セーブを効かせて描かれているのが気持ちいい。
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大和説と九州説も
公平に書かれている。

水行10日陸行1月のことも
考慮の後がうかがえる。

現時点で思うには
倭人伝に書かれた距離と方位の記述に従って読むと
どうしても日本にたどり着かない。
では距離がおかしいのか?方向がおかしいのか
どちらもおかしいのか?
帯方から邪馬壱国まで1万2千里、
4680km
距離は確実におかしい。
その誇大さに比べると大和か九州かの
差など誤差に近い。
それを踏まえたうえで
九州説は距離はおかしくても方角は
一貫して「南」とかかれた内容に沿っているが、
大和説はどこにも「東」とは書かれていないのに
これでいいのだ的に東を目指して大和に到着させている。

学研まんが以外にも
邪馬台国を扱った学習まんがはありました。
でも、中には卑弥呼が超能力を使ったり
日食を予言するシーンがあったりで
本当にいいと思えるのはこの一冊だけでした。
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天平の甍

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BookOffで井上靖の天平の甍を入手。
「敦煌」とか「氷壁」は読んだけれども
この本はまったく初めて手にした。
鑑真が渡った道は倭人伝に書かれた道とは
まったく違う様相に思えた。

本文には
天智天皇の第五回遣唐船までは、
筑紫大津から壱岐・対馬に向かい
南朝鮮の西海岸に沿って北上し
渤海湾口を横断し山東に上陸し・・
洛陽より長安へ入っていた。
併し、これは南朝鮮が日本の
勢力範囲にあってはじめて安全が
保障される航路であって、
新羅が半島を統一してからは
否応なしにほかの航路に依らなくては
ならなくなっていた。

という風に書かれている。

鑑真は何度遭難しても
日本へ来ることを断念せず、
ついにその視力を失うまでになった。
それほど困難な旅だったのは
計画に無理があったのかもしれないが
対馬海峡を渡り朝鮮半島経由する航路に比べて
より危険性が高かったのかもしれない。

卑弥呼の時代はやはり対馬海峡を渡っていたのだろう。
「対海国」は対馬、「一大国」は壱岐なんだろうと
思えてきたし、
魏志倭人伝の記述は、
魏王朝にとっては
帯方郡が南朝鮮を支配下におさめた結果、
倭人が貢物を持って訪れたのだ、
どんな粗末な貢物であってもそのことが
魏が半島を支配下に置いた明白な証拠だ。
そのことが言いたかったのだろうと
そんな風に思えてきました。

まんがの中の卑弥呼

魏志倭人伝の記事がぜんぜん面白くない。
何が言いたいのかかいつまんで説明してほしいと言われて、
こんな話をしました。
三国志の時代、
魏の都、洛陽にとても奇怪な異国からの使者が着きました。
男は顔に入れ墨をして布の幅をつないだだけの様な着物を着て、
自分は倭国の女王卑弥呼に仕える大臣、難升米。
魏の皇帝陛下に貢物を持って参りましたというのです。
その品物はといえば、皇帝に献上するにはあまりにも質素な
木綿の布が二巻きと顔に入れ墨をした男の奴隷4人、
布をくりぬいただけのような服を着た女の奴隷6人。
それでも皇帝は難升米たちが中国をはるか離れた海上の島国から来たのを知っていたし、
彼らが洛陽まで来る道中には魏の皇帝の威光が届きわたったことの証であったことが
うれしくて、彼らの貢物とは比べ物にならないほど破格の待遇、破格の引き出物をとらせました。
女王には親魏倭王の金印、難升米に率善中朗将の銀印、牛利には率善校尉の銀印。
銅鏡、錦、絹、金、刀などの財宝を持ち帰らせました。

その財宝は詔書とともにはじめて魏の使者によって倭国にもたらされましたが
2度目に使者が来たときは来たときはずいぶん様子が変わっていました。
韓国で反乱が起こり帯方の太守、弓遵が戦死したりして
2年も往来ができないでいた後、倭国でも新しい王が現れ
内乱が起こり、1000人もの犠牲者が出て後、
13歳の少女が新しい女王の座に就きました。
少女の名前は壱与。

そこまで話したとき、その話を知っている。
山岸涼子の「青青の時代」で読んだというのを聞いて
程なくブックオフで見つけました。

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内容については特にコメントはしません。
それを買ったついでに
こちらも買ってしまいました。
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石ノ森章太郎
マンガ日本の歴史第2巻。

それとは別に
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諸星大二郎マッドメン
縄文時代の土偶とイサナギ・イザナミ神話を
かなり無理な感じでつないでいますが、
卑弥呼時代の男性像にほとんど描かれることのない入れ墨が
縄文時代のものとして描かれているマッドメン、
自分がイメージする倭人はこちらに近いです。

埋葬の風習

うっかりしていました。
埋葬の風習について書かれていたことです。

張政が来たとき卑弥呼は生きていたのか?という疑問。

張政が持ってきた詔書は卑弥呼あてでなく難升米あてでした。
張政は黄色の旗を難升米にもたらし、「告諭」し、
男王に代わって即位した壱与に「告諭」したとありますが、
卑弥呼に会見したことは書かれていない。

でもそのまえに、
倭人の一般的な風習の書かれている箇所で

―その死には棺(かんおけ)あるも槨(そとばこ)なく、
土を封じて塚をつくる―とあります。

これは一般論として書かれていますが
張政が来たときに卑弥呼が死んだとしたら
張政たちもその埋葬を目の当たりにした可能性があります。
「棺おけはあっても外箱はなくただ土を被せるだけ。」
といっても貧民の墓ならかんおけすらないかも知れません、
喪主は泣き、関係者はお祭り騒ぎするくらいだから
格式のある家でさえ棺桶を埋めて塚を作るだけの墓です。

この記述が卑弥呼の墓にも例外でなくあてはまるのなら
卑弥呼の墓は「古墳」じゃないはずです。
石舞台古墳のようにむきだしになって構造がわかるものでは
棺桶はりっぱな石室のなかに収められていたはずだからです。


埋葬の風習のすぐ次に「持衰」の話が出ます。
持衰はまるで屍のように身を清めず禁欲させた人間を
乗船させ、旅程でおきた災難の責めをその一人に負わせる
人身御供のような役目ですが、張政が帰るときに送っていったのは
倭の大臣クラスの掖邪狗です。
当然、掖邪狗も張政を送るときに持衰を伴って行っただろうし、
納棺の話が卑弥呼のものでないにしろ、
魏の使者と接触のある大臣クラスの家の埋葬の風習だろうと思えます。

張政がきたときすでに卑弥呼が死んでいて
埋葬も何もかも終わっていたとしたら、
卑弥呼の墓に石室があったか張政は見なかったことになります。
ただ卑弥呼の墓だけが古墳で、大臣クラスの墓は盛り土だけとは
考えにくいです。

張政が来たとき辛うじて卑弥呼に息があったとして、
では魏の皇帝から難升米に詔書が来るということは、
高齢か病かで動けなかった卑弥呼に代わって難升米が
掖邪狗に親書を持たせて洛陽行きを命じたのかもしれません。

これを書きながらひとつ思いつきました。

掖邪狗は張政を送っていったのです。
張政は来るとき黄色の旗と詔書を携えて来ましたが
帰りには使節20人と献上の奴隷30人が同行します。

掖邪狗は張政の帰りの船に乗せてもらったのではなく、
一艘か船団かはわかりませんが、倭国の船に張政を
乗せていったから「送った」と書かれているのではないでしょうか。

魏の使者は帯方からまず船で海岸沿いに進んできましたが、
一貫して同じ船、同じ乗員で来て、倭国の港に停泊させていたというよりも、
信頼できる関係者の船を乗り継いできたのではないかと思えてきました。

卑弥呼の死はいつだったのか

帯方郡がどこにあったのかでつまずき
しばらく倭人伝から離れていたのですが
車の中でふと考えた、まったく別の箇所
のことを書きます。

正始8年帯方郡の太守、王頎が
張政を倭に遣わしたとありますが、
それに続いて

卑弥呼の死
卑弥呼の墓の造営
卑弥呼の埋葬
奴婢100人余りの殉死
男王の失脚
千人余りの粛清
壱与の即位
とたてつづけに事がおこった後で
張政は帰って行くのですが、

前から腑に落ちなかったのです。
卑弥呼が死んで墓ができるまで
何ヶ月かかるのか。
その間張政はすっと倭に滞在していたのか。

自分は一つの仮説を持っていました。
卑弥呼はすでに死んでいたのではないかと。
王になってより卑弥呼の姿を見たものは少ない。
死んでいないにしても卑弥呼の記事は
幽閉に近い状態に思え、政治の実権を握る
有力者の傀儡ではないのかと思っていました。

でも、ふと車の中で思ったのです。
卑弥呼の周りには千人の婢が侍らされていた。
卑弥呼が死ぬとか病で死にそうだとかなら
千人もの婢の口止めをするのはまず無理だろうと。

それでもう一度時系列で記事を見直してみました。  
(やはり卑弥呼は死んでいたのではないだろうか?)
そう思えてきました。

景初2年12月
魏の明帝から卑弥呼を親魏倭王に任ずる旨の詔書が出る。
正始元年
帯方郡の太守、弓遵が梯儁を遣わし卑弥呼に詔書と引き出物を
拝仮(さずけあたえる?)する。
正始4年
倭王が伊声耆・掖邪狗を遣わす。
正始6年
詔書が出て難升米あての黄幢(軍旗)が帯方郡に預けられる。
正始7年 
魏書三少帝紀によると帯方郡の太守、弓遵が韓国を攻めて戦死。
正始8年
正始8年帯方郡の太守、王頎が着任。
倭国より載斯烏越が使者として卑弥呼と狗奴国との交戦を知らせる。
張政が詔書・黄幢(軍旗)をもたらし難升米に拝仮する。
張政は檄文を作って難升米に告諭。
壱与が即位すると
張政は、檄(ふれぶみ)を出して壱与に告諭した。

卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と、もとより不和とあり、
黄幢(軍旗)は狗奴国に魏王朝の後ろ盾を見せ付けるための
ものであったとしたら、正始6年、詔書と黄幢が発信された時点で
皇帝は狗奴国との交戦をすでに知っていたと思われます。
詔書には何が書かれていたのか気になります。
しかも卑弥呼あてではなく難升米への詔書です。
この時点で卑弥呼の在位が不確かだったかもしれません。

その皇帝がはんこを押した詔書が正始8年にやっと届いたのは
正始7年に太守、弓遵が戦死して王頎が着任するまで
帯方郡が韓国と交戦状態であったためかもしれません。

あ、なんだか変な気がしてきました。

これはあくまで仮定の話です。
卑弥呼のあとに擁立された男王とは
誰だったのでしょうか。

卑弥呼の弟?
(カリスマ性がなさ過ぎます。
いままで卑弥呼の補佐役で
急に鬼道を用いるわけには行かないでしょう。
卑弥呼は結婚しなかったから卑弥呼と血縁のある
壱与はこの弟の娘だったかもしれません、この弟が
失脚させられるようなら、壱与も無事とは思えません。)

難升米?
(皇帝の詔書が下されるほどの実力者。
自分が王になるより、卑弥呼の縁者の
壱与を操ったほうが得策な立場かも) 

伊都国の王?
(代々王はいても女王に従っていると書いたのが
壱与の即位までを見た張政側の人間だとすれば
卑弥呼の死後、王として名乗りを上げた事実はなさそう。)

張政が帰ったということは狗奴国との問題も
決着がついたのだと思います。だとすれば、
卑弥呼の後、狗奴国の卑弥弓呼が王の
名乗りを上げて失脚させられたとは考えられないでしょうか。

倭国30国のうち王族のいる国は
女王の国と伊都国と狗奴国です。
王は王族のいる国から出る可能性があると思います。
帯方郡と韓国との戦いの間に
卑弥呼が死に、卑弥弓呼が立ち
それを阻止するため難升米が壱与を
担ぎ出して魏(帯方郡)に後ろ盾を頼んだとしたら。

これはフィクションです。が
自分では話の収まりのよさに驚いています。

楽浪郡

魏志倭人伝の最初の出だしは
「倭人は帯方の東南大海の中にあり」ですが
、帯方ってどういうところなんでしょうか。

岩波の注釈には今のソウル付近とあります。

wikipediaによると、
後漢の時代に遼東、のちに日露戦争の戦場となった遼東半島、
その地の太守であった公孫氏が朝鮮半島に進出し
今の北朝鮮西岸辺りにあった楽浪郡の南を分割し、屯有県
(現・黄海北道黄州か)以南を帯方郡と定め、韓国・倭国の
統治にあたったようです。

三世代目の公孫淵のとき魏に反旗を翻し遼東の襄平城で
景初元年(237年)独立を宣言。燕王を自称。
これに対し翌年、魏の明帝は司馬懿仲達を送り公孫氏を滅ぼします。
また海路から密かに劉昕と鮮于嗣を帯方太守、楽浪太守として
送り込み、帯方郡は魏の直轄地となります。

このときの海路については良くわかりませんが
陸路の戦乱を避けて海から帯方・楽浪の制圧部隊を送り込んだのであれば
帯方郡の港では黄海も渡れる船が発着していた可能性があります。
このことは帯方から倭に向けて出航した船についての想像にもつながります。

では帯方郡を知る前に楽浪郡ってなんだったのか知る必要があります。
と、思ってちょっと見てみると・・・謎というか、闇というか。
これはとても手に負えません。

三国志魏書30 東夷伝

高句麗
魏志倭人伝は三国志魏書の30巻に含まれています。
遼東の東、当時の中国から見れば辺境の地について
書かれています。

これは自分の感想ですが、
倭国はその辺境の最果てで
倭人伝は一番最後の記事です。
魏王朝の政策として周辺国を
平定し支配下に置いた結果として
最果ての倭国からの使者も
洛陽に朝貢するようになったのだという、
三国志全体のなかでの位置づけが
おぼろげながらわかってきた気がします。
貢物が粗末なものであろうが関係ないのです。
魏の威光が最果てまで達しているという証拠が
洛陽までやってきたことに意味があるのです。

倭国の前には夫餘(2千里四方)、高句麗(2千里四方)、
濊(面積不明)そして韓(4千里四方)とありますが、
洛陽から襄平(遼東)までの距離4千里はほぼ正しいのに
そこから先が、帯方→女王国1万2千里に近いレベルで
誇大です。

自分はこう思います。
三国志魏書東夷伝の里数は
過失か故意かはわかりませんが、
現実とは違っている。間違っているのです。
おかしいのは倭国だけではなく、
遼東の東南の国すべてです。
韓国までは陸続きなので「謎」は少なくなりますが
倭国は海を隔ててどの陸か特定できないので「謎」
が残ります。

しかしどの国も同じ程度に誇大であるのは
その記事の作者が同一人物か、同一組織に
よるものだからではないかと思えます。

あの国の大きさは何里、
この国の大きさは何里、と
あちこちから情報収集したものではなく
一括して出所が同じところの情報なのだと。

そうだとすれば
里数についてはそれが絶対だと決めつけないで、
方角については、
夫餘の南に高句麗が接して
その南に濊その南に韓と、
その方角を間違えていない人物が
倭国の記述だけ「東」のことを「南」だと
間違えることはないだろうと思います。

「短里説」は崩れた

三国志全文検索というサイトを見つけました。
三国志が書かれた時代だけ他の時代とは異なり、
「短里」を用いたという説があって、それを唱えた方は
著書「邪馬台国はなかった」のなかで
三国志に出てくる里数をすべて当たって見た結果、
すべて短里が用いられているとされていました。

ネットの普及はすごいものです。
全文検索を使って「十里」を検索してみました。
孔明の居住地が襄陽から二十里だったので
そのレンジの距離で現実とかけ離れた例があるのかを見ました。
gou.jpg
十里などいくらでも出てきますが、
三國志卷六/魏書六/董二袁劉傳第六に
五十里と十七里が出てきました。

去鄴十七里臨滏水(鄴を去ること十七里で滏水に臨む)
というのをgooglemapで検索してみました。
17里は1里390mで計算すると6.6km。
過大ではなく少ないくらいです。
でも桁が違うというほどではありません。

次に「千里」を検索してみました。
三國志卷三/魏書三/明帝紀第三にありました。
魏の皇帝曹叡が司馬懿仲達に命じて襄平で独立を企てた
公孫淵を討たせたときに、兵士4万人をつけようとすると、
家臣がみな4万人は多すぎるといったのを、
「4千里の征伐に行くのだ、経費は少なく見積もるにはあたらない。」
(我流の訳なので間違っていないかちょっと不安ですが・・・)
といって結局4万人を行かせたとありました。
4000ri.jpg
これを見たときに(またまた・・・)
ああ、皇帝が4000里なんて言ってしまったから
そこから先は距離の単位が1000里で記載されてもおかしくはないなあ・・・
と思いながらGooglemapで距離を測定してみると
洛陽―襄平間1450km。(4000里x390=1560km)
なんとほぼ合っているのです。

わたしは古田武彦さんのようにすべてを当たったとはいいません。
が、距離が間延びするのは遼東から先の楽浪郡・帯方郡に属する領域で
わたしには遼東まで4000里という距離が先入観となって働いたのではないか
と思えてきました。

魏志韓伝2

4千里四方
魏志倭人伝を離れて魏志韓伝のなかの韓国の大きさを見てみました。
4000里四方とあり、1里390mで換算すると1560km四方ということになります。
魏志韓伝でも倭人伝同様、里数が極端に大きくなっています。
韓伝以外の国についても見た感じこのレベルのようです。

帯方―倭間だけであれば、倭人が中国の里数を知らなかったと
いわれても仕方ないですが、陸続きの韓国まで誇大に記されています。

諸葛孔明の草蘆が襄陽から20里の隆中にあるという記事では
1里390mでおかしくはありませんでした。
魏書全体で里数が狂っているのか狂っているグループがあるのか
もう少し見てみなくてはなりません。

箸墓古墳

2週連続で家をあけて疲れたのと
身辺でいろいろあって、気持ちを入れ替えたいのです。

すこし現実逃避して魏志韓伝を読んでみようと思いました。
塚田敬章という方のサイトがわかりやすく、
利用させていただいたのですが、

その方は卑弥呼の墓は奈良県纒向遺跡の
箸墓古墳でそこに埋葬されているとされる
孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命が
卑弥呼であると主張されています。

サイトを利用させていただいておいて気まずいのですが、
わたしには箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないように思えます。


Wikipediaによりますと箸墓古墳は宮内庁の管理の下、立ち入りが禁止されて
詳細はわからないのですが、古墳である以上、内部は石舞台古墳のように
石棺を収める石室があると思われます。また日本書紀に(箸墓古墳は)
大坂山の石を運んでつくった。と書かれているようです。

魏志倭人伝には
「人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)はなく土を封じて塚を作る。」とあり
棺おけはあっても棺おけを収める石室はおろか木の箱さえなくて
そのうえに土を盛って作る墓のようです。
魏使は卑弥呼の墓の造営を目撃しているのでこのことは卑弥呼の墓にも
当てはまると思えます。

以前、福岡県の権現塚古墳が直径100歩という卑弥呼の墓とサイズに
近いと書きましたが、卑弥呼の墓は「古墳」と呼べるほど立派な構造はもって
いないようです。権現塚古墳も円墳でサイズが合うにしても、構造をよく確かめずに
卑弥呼の墓と想像するのはよしたほうがいいようです。
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いちしんふたば

Author:いちしんふたば
Iターンで転職も成功!
を夢見たけれど
事は予定どおりに運ばなかった
いちしんふたばの
さて、これからどうする?

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