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卑弥呼の死はいつだったのか

帯方郡がどこにあったのかでつまずき
しばらく倭人伝から離れていたのですが
車の中でふと考えた、まったく別の箇所
のことを書きます。

正始8年帯方郡の太守、王頎が
張政を倭に遣わしたとありますが、
それに続いて

卑弥呼の死
卑弥呼の墓の造営
卑弥呼の埋葬
奴婢100人余りの殉死
男王の失脚
千人余りの粛清
壱与の即位
とたてつづけに事がおこった後で
張政は帰って行くのですが、

前から腑に落ちなかったのです。
卑弥呼が死んで墓ができるまで
何ヶ月かかるのか。
その間張政はすっと倭に滞在していたのか。

自分は一つの仮説を持っていました。
卑弥呼はすでに死んでいたのではないかと。
王になってより卑弥呼の姿を見たものは少ない。
死んでいないにしても卑弥呼の記事は
幽閉に近い状態に思え、政治の実権を握る
有力者の傀儡ではないのかと思っていました。

でも、ふと車の中で思ったのです。
卑弥呼の周りには千人の婢が侍らされていた。
卑弥呼が死ぬとか病で死にそうだとかなら
千人もの婢の口止めをするのはまず無理だろうと。

それでもう一度時系列で記事を見直してみました。  
(やはり卑弥呼は死んでいたのではないだろうか?)
そう思えてきました。

景初2年12月
魏の明帝から卑弥呼を親魏倭王に任ずる旨の詔書が出る。
正始元年
帯方郡の太守、弓遵が梯儁を遣わし卑弥呼に詔書と引き出物を
拝仮(さずけあたえる?)する。
正始4年
倭王が伊声耆・掖邪狗を遣わす。
正始6年
詔書が出て難升米あての黄幢(軍旗)が帯方郡に預けられる。
正始7年 
魏書三少帝紀によると帯方郡の太守、弓遵が韓国を攻めて戦死。
正始8年
正始8年帯方郡の太守、王頎が着任。
倭国より載斯烏越が使者として卑弥呼と狗奴国との交戦を知らせる。
張政が詔書・黄幢(軍旗)をもたらし難升米に拝仮する。
張政は檄文を作って難升米に告諭。
壱与が即位すると
張政は、檄(ふれぶみ)を出して壱与に告諭した。

卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と、もとより不和とあり、
黄幢(軍旗)は狗奴国に魏王朝の後ろ盾を見せ付けるための
ものであったとしたら、正始6年、詔書と黄幢が発信された時点で
皇帝は狗奴国との交戦をすでに知っていたと思われます。
詔書には何が書かれていたのか気になります。
しかも卑弥呼あてではなく難升米への詔書です。
この時点で卑弥呼の在位が不確かだったかもしれません。

その皇帝がはんこを押した詔書が正始8年にやっと届いたのは
正始7年に太守、弓遵が戦死して王頎が着任するまで
帯方郡が韓国と交戦状態であったためかもしれません。

あ、なんだか変な気がしてきました。

これはあくまで仮定の話です。
卑弥呼のあとに擁立された男王とは
誰だったのでしょうか。

卑弥呼の弟?
(カリスマ性がなさ過ぎます。
いままで卑弥呼の補佐役で
急に鬼道を用いるわけには行かないでしょう。
卑弥呼は結婚しなかったから卑弥呼と血縁のある
壱与はこの弟の娘だったかもしれません、この弟が
失脚させられるようなら、壱与も無事とは思えません。)

難升米?
(皇帝の詔書が下されるほどの実力者。
自分が王になるより、卑弥呼の縁者の
壱与を操ったほうが得策な立場かも) 

伊都国の王?
(代々王はいても女王に従っていると書いたのが
壱与の即位までを見た張政側の人間だとすれば
卑弥呼の死後、王として名乗りを上げた事実はなさそう。)

張政が帰ったということは狗奴国との問題も
決着がついたのだと思います。だとすれば、
卑弥呼の後、狗奴国の卑弥弓呼が王の
名乗りを上げて失脚させられたとは考えられないでしょうか。

倭国30国のうち王族のいる国は
女王の国と伊都国と狗奴国です。
王は王族のいる国から出る可能性があると思います。
帯方郡と韓国との戦いの間に
卑弥呼が死に、卑弥弓呼が立ち
それを阻止するため難升米が壱与を
担ぎ出して魏(帯方郡)に後ろ盾を頼んだとしたら。

これはフィクションです。が
自分では話の収まりのよさに驚いています。
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